Last Modified: 2025年06月11日10時53分

進歩性の要求と要旨認定ないし技術的範囲
(リパーゼ最判の再考の試み、範囲を限定しなくても進歩性を認める可能性)

松本 直樹
(御連絡はメールでホームページの末尾にあるアドレスまで。)
(初出: 『多様化する知的財産権訴訟の未来へ / 清水節先生古稀記念論文集』2023年10月刊、 加除出版のページアマゾンのページ

 題名が一般的過ぎてしまいましたが、括弧書きを付けたように(初出時はこれはありませんでした)、リパーゼ最判を代表とする実例を取り上げます。進歩性(ないし非自明性)要求において、クレーム範囲の広さを取り上げない、との考えについての検討です。

 なお、元の原稿テキストを元にしており(KSR事件についての加筆をしました)、ゲラへの修正を反映していない箇所があると思われます。

目次

1. 判断対象は請求項の規定する発明ではあるが

 特許性の判断の対象は、請求の範囲(請求項、クレーム)の規定する発明である。これは間違いない。しかし、進歩性の判断においては、請求項の意義は相対的であるべきではないか。本稿は、かかる議論を試みるものである。前稿(リンク先はPDFのキャッシュ)※1)と基本的な問題意識は共通するが、違った観点からの指摘をしたい。

1.1 相違点だけを考察することへの疑問

 審査基準によれば(また現実の審査や侵害訴訟での無効判断でも)、新規性および進歩性の判断においては、まず先行例との一致点と相違点を抽出する。相違点が無ければ新規性が否定されるが、相違点があれば、進歩性が検討される。従来技術との関係で容易なものか、発明として意義のあるものか、を検討するわけだが、その際には、その相違点をこそ検討することになっている。

 相違点こそが従来技術との違いなのだから、これは当たり前だと言われるかも知れない。しかし、相違点を取り出すことの意義はあるにしても、判断対象として集中するのには問題がある。特許性の判断において、それだけに注目するのは不適切と思われるのである。以下に説明するように、それは出願人の発明のうちで最も駄目なところに着目することになるからである。

1.2 相違点と要件とクレームの広さ

 相違点とされるのは、実際的には、“クレームで規定されたうちで先行技術が充足しない要件”である。そのように要件を考えるということは、要件によって画された範囲の広さを考えることになる。クレームは、要件の組み合わせによって範囲を規定しているものだからである。要件を加えることでそれだけ範囲を限定して狭くするもので、要件が足りなければそれに応じて広い範囲を持つことになる。

 先行技術が或る要件を満たさないということは、その要件の分だけ遠いものということである。その要件を外した、その分だけ“広い範囲”を想定して、初めて範囲内に入ってくる。

1.3 侵害判断や新規性要件では広さが決定的、既存のものを独占させてはいけないから

 広さのある範囲をクレーム要件に基づいて認定することが、侵害の成否および新規性の要件に関しては必要である。ここでは範囲およびその広さが極めて重要である。

 新規性要件は、既存技術の独占をさせないために必要である。既存のものが範囲に入ってしまうということは、既存の技術が特許権によって独占されてしまうことである。これは許されない。それが新規性の要求である。

 ここでは、範囲の広さは決定的に重要である。範囲の広がりの中に既存のものが含まれたなら、またその場合だけが、非新規である。また、侵害も同様であり、イ号が要件をすべて充足することは、範囲に含まれることと同値であり、その場合にはまたその場合にだけ侵害となる。

1.4 進歩性判断では、広さは無関係ではないか

 これと進歩性は違うのではないか。進歩性の判断においては、クレームの広さを問題とすることが疑問、というのがポイントである。

 審査段階でのクレームの解釈は、要旨認定と言われ、新規性判断と進歩性判断とにおいて区別がされないのが一般的である。ここで同じく要旨認定と言われる中で、新規性と進歩性では違いがあるべきではないか、というのが本稿の指摘である。

 侵害や新規性については、クレームの広さが非常に重要で、先行技術ないしイ号がその範囲内に入るかどうかが大事である。進歩性ではそれと違うだろうということである。進歩性が問題となるのは、先行技術が範囲には入らないので新規性は認められるという場合こそではあるが、その上での進歩性判断では、範囲の限界との近さは重要ではないのではないか。

 進歩性の要求は、その規定された範囲は新規であっても(=既存技術を含まないにしても)、その発明としての意義があまりに小さいのであれば、それに特許権という強力な権利を与えることが適切ではないから特許性を認めない、という趣旨のはずである。特許権というインセンティブを与えなくても必ずや発想されるだろうから、ということでもある。

 こちらでは、範囲の広がりは特別な意味を持たないのではないか。発明としての意義を考えるべきだが、それは広がりとは関係なく、むしろ中核的な開示内容にこそ注目するべきではないか。これに対して要件に注目することは、範囲の限界部分、典型的には最も駄目なところを取り上げることになってしまう。そこは進歩性と基本無関係と考えるべきではないか。

 このように考える場合でも、その意義を考える対象である発明は、クレーム要件によって特定されたものではある。要件を無視するわけではない。ただ、要件自体を問題とするわけではないということである。

1.5 成果を評価するべきで、相違点に注目し過ぎるのは不適切

 相違点とされるのは、クレーム要件のうちで充足されていないものである。そして、クレーム要件の働きは範囲を規定することなのを思うと、こうした相違点の把握は、クレームの広さを問題とすることになる。

 顕著な効果や商業的な成功について、理屈としては考慮すると言われるが、実際にはそれで進歩性が肯定されることは極めて少ない。クレームの全範囲について得られているのでないといけないとか、必然的に得られるものでないといけないとかと言われ、クレーム要件との直接的な関係が強く求められる。クレームされた発明の全部に進歩性が必要だと言うと、合理的なようにも聞こえるが、しかしそれは実際的な発明評価としては正しくないのではないか。他の理由によって成功している可能性を否定し尽くすというのは、厳しく求めると無理ではないか。それどころか、こうした要求は限界的な駄目なもの(範囲の中で最も駄目なもの)でも成功したはずだと言える必要があると言うのに等しいのであり、そのように見直すと、むしろ積極的におかしいのではないかと思われてくる。

 後知恵を排して発明を評価するためには、成果の評価を大いに取り入れるのが重要である。それを出来なくしているのではないか。進歩性を認めるについて、成果の評価を実際的に働くようにするべきである。

 さらに皮肉なことに、機械などの場合は、必然的であることを要求したのでは、それ自体が進歩性を否定することになりかねない。機械では、構造が十分に特定されれば結果が予見できるのが普通だから、必然的なまでの規定なら、その結果は当たり前のものでしかなくなる。

 問題は、要件との関係、ないしは広がりとの関係である。

2. リパーゼ最判を再考する

 リパーゼ事件最判(最判平成3年3月8日)の事案は、筆者の考えを具体的に説明するのに適切なものだと改めて考えている。限定解釈をしない点はともかくとして、それで進歩性を否定している論旨には疑問がある。(追記: “限定解釈しないなら当然に進歩性が否定される”というのが前提となっている、その点に疑問を持つものです。結論については、高裁が特許性肯定、最高裁が否定の方向 (破棄差戻し) であるわけですが、限定しなくても開示内容の意義を認めて特許性を肯定する可能性があるのではないか、というのが本稿の指摘です。)

2.1 限定解釈しない原則と進歩性

 リパーゼ最判は、詳細説明を参酌して請求項を限定的に解釈することを、原則的に否定した。請求項に規定されるとおりに解釈するべきとする。この限りでは、話は良く分かる。

 しかし事案としては、進歩性無し(容易想到)として特許性が否定されるかどうかが問題となっていることから、この扱いには疑問を持つ。この事案では、そうした問題において解釈が論じられているのである。この点が多くの議論において無視されている。クレーム解釈について、審査段階での要旨認定と侵害判断での技術的範囲との関係を検討する議論がされるばかりで、進歩性判断が新規性判断とは違うのではないかとの指摘は見ない。

 前稿でもリパーゼ最判に言及したが、十分ではなかった。著名なこの最判の事案は、筆者の考えを説明するのに適切だと思われる。説明というか、この事案を取り上げることで、考えを試すことが出来るように思う。

2.2 要旨認定と技術的範囲とは基本は同じだが、従前の影響がある

 リパーゼ最判は、請求項の解釈についての最判として著名であるが、多く検討されているのは、この事案が、査定系であり特許性の判断のための要旨認定についての判決だという点である。これと、侵害判断における技術的範囲との関係が問題となる。この点が問題となるのはもちろん良く分かることだが、加えて実は、新規性は認められるのが前提となっている事案であることが注意されてもよいと思われる。

 初めに、本稿の関心事ではない点について簡単にまとめておく。筆者は、新規性判断の要旨認定と侵害判断の技術的範囲とは、基本的には同じだと理解している。ただし、一般的に先に審査があって成立していることから、その際の要旨認定が後の侵害判断での技術的範囲の解釈に影響を与える。典型的には、審査段階で狭い解釈の主張があったのなら、少なくとも同様の範囲に技術的範囲が制限されるべきである。

 こうした影響のあり方以外は、基本としては同じである。時間の先後が違うだけで、新規性を否定する先行技術と、技術的範囲に属する侵害品とは、同じである。

 なお、既存技術の独占を許さないという意味では、侵害の技術的範囲の方が狭くなるという方向での変化なら、問題を生じない。必須の要請は、新規性判断の要旨認定よりも侵害判断の技術的範囲が広くてはいけないということだけであって、それと逆方向の変化、つまり侵害の範囲が狭くなるというのは許容され得るものではある。広いクレームを許さないというのも、これと同様の効果を生じる。制度的にはあり得るものだが、特許権者に与えるインセンティブが十分なものにならない可能性がある。

 本稿が指摘したいのは、こうした新規性判断のための要旨認定と、進歩性判断の対象とは違い得るということである。進歩性判断においては、要件ないし限界を問題とするべきでない。

2.3 発明内容と請求項

 リパーゼ最判の明細書の内容は、Raリパーゼを使っての測定法の発明である。Raリパーゼを使って、規定の手順での方法により良い特性を得たとの内容であった。ところが請求項では、使うのは単に「リパーゼ」と記されていた。これが理由で拒絶審決がくだされたが、高裁は、この「リパーゼ」を「Raリパーゼ」と限定解釈して拒絶審決を取り消した。最高裁は、こうした限定解釈を否定した。

 本稿の出発点は、これが進歩性の判断におけるものだということである。原則的に限定解釈をしないというのは良いとして、Raに限定されていないからと言って進歩性を否定するのは疑問である。この要件の不十分によって、十分な成果を上げない実施形態が範囲から除かれていないことになる訳だが、それが進歩性を否定するというのはおかしいのではないか。

 なお、請求項は、次のとおりの「測定法」である:

「リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に,鹸化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数 10〜15 のアルカリ金属−又はアルカリ土類金属−アルカリ硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。」

2.4 不奏効を含むことが否定理由になるのか

 審決は、請求項に記されたとおりに、Raに限定されないものと解釈し、その結果として特許性を否定した(容易推考として)。

 Raとの限定が無いからといって、先行例を含むわけではない。また、それで特に先行例に近い実施形態が含まれることになるというわけでもない。ただ明細書の説明によれば、成果が得られるのはRaリパーゼの場合であり、その限定が無いと、特に成果が得られない(少なくとも、得られるとは知られない)態様までを含むことになってしまうというだけである。これで特許性を否定する考えは、範囲内で成果が得られないものがあってはいけない、というのを前提としている。そういう意味で範囲の“広さ”を重要視する考えと言える。

 役に立たない方法が範囲に入ってしまうことが、進歩性を否定する理由になる、ということになる。こうした考えは、むしろ当然視されているようでもあるが、筆者には疑問に思われる。

 [飯村](※2)が、「Raリパーゼ」を使用した場合に特有の作用効果があり進歩性があることは被告も認めていたこと、および、「Raリパーゼ以外のリパーゼ」について引用例から容易である旨の論理過程を示しているわけではないこと、を特に説明している。そして特殊な事案であることを強く指摘して、判旨を単純に額面どおりに受け取ることをいさめる。こうした指摘を素直に受け入れると、本稿の議論に行き着くように筆者には思われる。もっとも、これは自由に過ぎる考えなのかも知れない。[飯村]の説く範囲が、判例を出来るだけ尊重する実務的な落としどころだとも思う。

2.5 Raリパーゼ限定のクレームを求めるべきなのか

 不奏効を含んではならないというのを前提とするなら、クレームが明示的にRaリパーゼと特定するべきというのは合理的ではある。この事件は侵害訴訟ではなく審査段階なのだから、狭く解釈するというのではなくて、クレームをそのように補正するべきだということである。

 なお、リパーゼ最判についての議論の多くが、広い範囲を限定する参酌をしないとの結論が、侵害訴訟での技術的範囲には適用されるべきでない、との点に向けられている。これは、仮に狭い解釈を前提として新規性が審査されたなら、同様に侵害を判断するべきという限りで当然である。そうでなければ既存技術を独占させることになる。

 また、「リパーゼ」との規定のクレームでは、Raリパーゼの発明のクレームにならない、という理屈にも分かるところはある。そうすると、「リパーゼ」との規定では、Raリパーゼの場合の有効性を成果として評価するのは正しくない、ということにもなる。

 本稿はかなり自由な考えで進歩性を考察しているので、そもそも不奏効を含むことの許容を主に検討するが、実務的に判例に従うことを考えるなら、こうした見方を重要視することになるだろう。

2.6 どう規定しても、すべてで成果が得られるようにはならない

 明細書によれば、リパーゼの中でもRaリパーゼで効果を出せる。それが開示されている。こうした実施形態も、クレームの技術的範囲に含まれるのは間違いない。これはクレームされた発明の成果だ、と言えるはずである。進歩性の検討において、こうした成果主張を許容するべきではなかろうか。

 そもそも、成果が得られないものがあることを問題とするのがおかしいのではないか。範囲が広すぎることを問題にすることは、要件によって規定される中で最も駄目なところを取り上げようとすることである。それは不適切な扱いではないか。

 また、どこまで規定しようと、形式的にはクレーム規定を充足しながら、なお適切に働かないものはあり得る。要するに、下手に実施すればそうなる。Raだけにする規定を求めるのは、むしろバランスを失しているように思われる。

 ただしリパーゼ事件の場合には、化学物質が絡んでいるために、可能性があるようにも見えるところが微妙な点ではある。化学物質の場合には、物質を特定することで、該当のすべてのものについてその性質を持つことが期待できる。これは機械などには無いことであり、そのために外れるものまでが含まれていることが却って目立つ。

2.7 不奏効を含むことでの不当はあるのか

 Raリパーゼ以外のリパーゼでは、おそらくは十分な結果を得ることが出来ない。そうだとすれば、そうしたものを含むことになっても、そのことに意味は小さいように思われる。

 まず、まったく役に立たないものしかないのなら、実施されることも無い(出来ない)。この場合、それが権利範囲に入ろうとも、誰にとっても意味は無い。気にするべきでない。

 凡庸な程度だけではあるものの、一応は働くというなら、多少は問題となる。これは大いにありそうな状況だが、それが権利範囲とされると、他者にとって回避策の可能性が狭まる。しかし、それを特に問題とするべきではないように思われる。むしろ、そこまでが権利とされてこそ、権利の有効性が十分なものとなるとも言える。

(追記: この「むしろ、そこまでが権利とされてこそ、権利の有効性が十分なものとなる」というのは、証明の問題を考慮に入れると特に意味を持ちます。Raリパーゼについてはそういう問題は生じにくそうではありますが、特許侵害事件の原告側では、余計な要件があるためにその充足の証明に難儀する、というのはよくあることだと思います。)

 [塩月](※3)が問題視するのは、こうした場合なのだろう。明細書が巧妙な書き方になっていると指摘し、後の技術的範囲の解釈としては、請求項に規定が無い以上は、Raに限定されないことになるだろうとしている。(追記: 巧妙な書き方として批判的なのは、そこは本来は特許性が無いところなのに独占される、と理解するからだと思われます。そうも言えますが、しかし、そこも新規なのが前提です。そして前出[飯村] (※2) の指摘のとおり、「Raリパーゼ以外のリパーゼ」について引用例から容易である旨の論理過程を示しているわけではないのですから、そこまで独占することを特に否定する必然性は無いと思われます。)

 凡庸な結果だけなら、特許権が与えられるべきではないわけだが、それとこの出願とを同じに考えるべきではない。Raリパーゼでの顕著な結果が開示されており、それに応じて特許権が与えられるものである。その特許権により、凡庸な結果の実施までが範囲とされるとしても、それは追加的なものとして認めても良いのではないか。(追記: 「追加的なもの」は、オマケということで、そこも新規である (そこまで含めても新規性が否定されない) のが前提です。従前からのものまでを独占させるのはあり得ませんが、そうではないなら、オマケを認めてもおかしくはない、ということです。)

2.8 認識外の顕著な奏功の可能性

 可能性としては、大きな意義のある場合もあるかも知れない。そうした実施形態は明細書には記されておらず、発明者自身の認識でもないのだと思われるが、後に見出される可能性はある。

 仮にそうなった場合には、認識していなかった形態に権利が及ぶ可能性があることになる(ただし、権利が及ばないとの解釈の可能性もあるが)。これはおかしいという考えもあるだろう。

 しかし、これも、そんなに不当なことだろうか。認識していなかった、という言い方をすると権利が及ぶのは不適切なようにも聞こえるが、しかし、利用発明であればそうなるのは当然である。利用発明の場合、一般的に、基本発明の特許の独占権は及ぶのであって、利用発明の実施には基本発明特許の許諾等が必要となる。これに比較して(というか、ここでの仮定は利用発明の一種である)、ここで認識外に権利が及んでも特に不当ということはないはずである。

 それでも、こうした広いクレームを許さないという考え方もあり得る。しかし、仮にそうした考えをとるとしても、それは進歩性ないし容易想到とは別の話ではなかろうか。さらに、それが妥当なのであろうか。

2.9 部分的にだけ得られる効果では不十分なのか

 進歩性のためには、部分的にだけ得られる効果では不十分なのは当然と考えられているように見える。リパーゼ最判をめぐる議論がそうであるし、他の裁判例にもそうした考えが現れているものがある。

 たとえば知判平成19年10月31日は次のように判示している:

 「出願に係る発明の構成のうち,ごく限定された実施態様についてだけその効果が示されているが,技術常識に照らせば,その効果が,出願に係る発明として記載された構成に含まれるものすべてについて及ぶと推測することができないような場合,出願に係る発明として記載された構成に含まれるものすべてについて,効果を根拠として,その構成に想到することが容易であるといえないとすることはできない」

 この判旨によれば、効果を根拠として非容易と認めるためには、「その効果が,出願に係る発明として記載された構成に含まれるものすべてについて及ぶ」ことが必要とされている(判決文はこれに推測が絡んで複雑になっている)

 ただし内容を見ると、単に「限定された実施形態」で効果があるというより、そもそも肝心の点が規定されていないクレームのようにも見える。次のような問題であり、「マイクロカプセル皮膜の原料成分」により効果が変わるのにその特定が無いのが問題とされている:

「つまり,具体的に好適な効果が示されているのは,本願発明1の製造方法のうち,ごく一部の特定された実施態様のもののみである。マイクロカプセル皮膜の原料成分の特定が何もなされていない多官能性化合物を界面重合させてマイクロカプセル化したものを規定している本願発明1全体の作用効果については,何ら示されていない。」

 極端に言うと、要件として記されている構成の働きではない、皮膜の原料成分という他の要素によって得られている効果であるとも見える(そう考えると、クレームと開示発明との不一致の問題である)。それでも、こうした場合でも、そういう使い方の“可能性がある”というのも成果だと言えるかも知れない(本稿の考えからは)。しかしそうした考え方は採用されていない。

3. 米国の裁判例との比較

 米国では、非自明性要求(103条)について、一応の自明性認定を、一部だけでの成果で覆すことを認める(少なくともそうした裁判例がある)。そして、広すぎることは特許性否定の理由にはならないと明言されている。

3.1 フィリップス判決なども理解できる

 フィリップス事件大法廷判決では、説明された効果を発揮しないものでも「バッフル(baffles)」に該当して侵害になるとされた。すなわち、辞書優先説を否定して内部証拠を優先するとしながら、しかし、明細書の説明するバッフルの働き(弾丸を逸らせる)を果たさない被告装置の垂直配置の板もバッフルに当たるとした。少数意見の指摘するように、ここには理解の難しいところがあった。拙稿※4)で検討したように、内部証拠優先というなら、むしろ明細書の説明に即した構造に限定する(辞書的にはバッフルに当たるにしてもここでは非該当と)、というのが理解しやすい。

 非自明性についての本稿の指摘を考えるなら、内部証拠説と言ってもこうした解釈があり得ることを、改めて納得することが出来る。むしろ自然であるとすら見えてくる。非自明性は範囲の広さと無関係であるから、非自明性を支持する効果の説明は、技術的範囲に影響を与えない(効果の説明により範囲を狭めることがない、その効果を達成しないものを除くことがない)のである。内部証拠説と言っても、そういう前提ないし意味での話なのだと理解される。

 この件の明細書では、バッフルとして斜め配置のものを説明し、それで弾丸を逸らすことが出来るとしている。しかし、だからといって本件クレームのバッフルは、そうした働きのあるものだけに限られ、垂直配置のものは含まれない、とはならない。弾丸逸らしの効果の説明は、非自明性のためのものであるはずだが(それがどの程度まで必要な先行技術状況かは不明であるが)、非自明性の問題においては要件ないし広さはもともと問題でないから、非自明性のための効果説明があってもバッフルがそれを果たすものに限定されることはないのである。大法廷判決多数意見は、こういう考えを背景としていると思うと腑に落ちる。

(WEBでの追記)フィリップス事件の事案は、明細書で説明されている成果を利用していないことが明白な被告装置を対象としている。仮に、バッフルの弾を逸らす働きが成果として非自明性のために必須のものなのだとすると、これで侵害とするのが適正なのか、いかにも疑問なものとはなる。成果説明によって範囲を狭めることをしないのが米国流である(それでも限度はあるが、日本でとは違う原理ないし説明による)

 それでも、米国において、明細書において効果を説明するべきではない、それが侵害の範囲を広く保つのに有益、との論説を頻繁に目にする。これは、比較すればそうなる可能性はある、ということなのだろう。そこで目指されている広さは、日本での常識とはかなり違いのある程度のものなのだと思われる。

3.2 In re Chupp 事件の事案(特定の対象物での除草能力で物質特許)

 In re Chupp(816 F.2d 643 (Fed. Cir. 1987)、不十分ながら前稿でも言及したケースである)は、典型的である。[前田1](※5)が、米国の非自明性を説明する文脈で、「興味深いことに、予期しない効果を奏するのはクレームの一部でも良いとされている。」(40頁)としてこの裁判例を取り上げている。我が国での常識とは異なるという意味だと解される。

 この件の特許の当初の出願はさらに多様なクレームを有していたが、結局、「N-(エトキシメチル)-2'-トリフルオロメチル-6'-メチル-2-クロロアセトアニリド」という1つの化合物についての4つのクレームが判断対象となった。この物質は、先行技術であるスイス特許に開示された物質と、1個のメチレン基(-CH[2]-)が異なるだけのもので、そのために物質としては一応は自明で特許性無し(103条、prima facie obvious)とされた。この認定は、出願人(原告)も争っておらず、しかし予想外の特性によりなお特許性が認められるべきと主張した。

 出願人は、この化合物の除草活性を、最も近い先行技術化合物(上記スイス特許のもの)および2種類の市販除草剤と比較した試験結果を説明する陳述書(declaration)を提出した。この試験では、トウモロコシと大豆という2つの作物において、ヤブガラシ(quackgrass)とイエローナッツエッジ(yellow nutsedge)という2種類の雑草に対する化合物の除草能力が比較された。その結果として、請求項の化合物は、従来技術に比べて少なくとも5倍の選択性係数があるとされ、予想外の優れた性質を持つものとされた。

 この結果、審査官は、2つのクレーム(この化合物を使ったトウモロコシのための除草剤と、同じく大豆のための除草剤の請求項)については特許性を認めた。が、より広いクレーム(この化合物自体のクレームと、これを使った一般的な除草剤のクレーム)は認めず出願を拒絶した。審決においてもかかる拒絶が維持された。提出された試験結果により、トウモロコシないし大豆のための除草剤としては非自明の発明と言えるとしても、広いクレームはそうした発明を規定するものではなく、その自明性は覆されていない、としたわけである。

3.3 判旨(限定を不要とする)

 フェデラル・サーキットは、1987年4月15日の判決で上記拒絶審決を取り消した。判決は、トウモロコシと大豆という2つの作物だけでの、しかも限定された雑草に対しての試験だけでは、非自明性の証明にならないとの特許庁の主張を明確に否定している。

 なお、この出願(出願番号US06/358,967)のその後を見ると、USP4,731,109として1988年3月15日付けで特許が成立している。4つのクレームがあるが、その1は化合物(compound)自体、2はそれを使った一般的な除草剤(herbicidal composition)、3と4はそれを使ったそれぞれトウモロコシと大豆における除草の方法(Method for combatting undesirable plants in corn など)、となっている。前二者が争いとなっていたクレームで、後二者が審査官が既に認めていたクレームだとみられる。

 この判決の末尾では、クレームを狭める要求を、さらに明確に否定する。すなわち、本件の拒絶は103条(非自明性の条文)による体裁をとっているものの実は過度の広さ(undue breadth)を否定しようとするもので、特許庁は、広いクレームは他者がトウモロコシや大豆以外の作物に使用すること(それがそれ程に効果的ではないにしても)を妨げることになることを懸念している、との理解に言及する。その上で、これを見当違いだ(misplaced)として否定した。

 自明性としてだけではなく、そもそも広すぎるとの拒絶理由を否定するのである。

 また、判旨によるなら、従属関係にある請求項の間では非自明性判断は原則的に同じになることが注目される。新規性については、より範囲の狭い従属項だけが新規と認められることがあり(追加された要件によって先行例との区別が付く場合にそうなる)、それが従属項の存在理由なわけだが、非自明性については違う。この事件では、対象物を特定した従属項(3と4)だけを非自明として無限定の請求項を無効とした審決を取り消した。

3.4 "subject matter as a whole"

 この判決で言及されている特許庁側の主張では、"subject matter as a whole" が検討されるべきとの先例を根拠とする議論がされている。僅かな場面での有効性しか証明されていないので、一般的なクレームの非自明性の証明にならないとの議論とそれによる拒絶は、この要求によるというのである。

 これは、前稿での指摘と逆に働く趣旨で“as a whole”を取り上げる論旨になっており、興味深い。“as a whole”は、本来は、要素をいたずらに分解するのを否定する意味だと思われる(前稿での説明のとおり)。別の言い方をするなら、従来技術との相違点に過度に個別的に着目するのは正しくない、と。ところがこの件では、特許性を否定しようとする特許庁側が、限定された試験の結果だけでは、この物質そのもののクレームについてはその全体の非自明性の証明にならないとの趣旨で、“as a whole”が要求されるから特許性が認められないと議論している。もちろん判決では否定されているが、こういる理屈もあるのだと思わされた。

3.5 KSR事件(WEB掲載時に追記)

 保科敏夫「KSR事件を通して特許実務を考える」(パテント Vol. 77 No. 8 (2024年7月)、ここにPDFをキャッシュに接して、KSR事件の各判決が本稿の指摘の例になると気付かされた。(本稿の初出の後の論文についての話であり、本項はWEB掲載時に加筆しています。)

3.5.1 KSR事件判決への批判

 保科論文は、KSR事件の各判決について次のように指摘している:

 5.3 実際の判断についての考察
(1) 考察1 地裁、最高裁が'565号特許発明の非自明性を否定しているのに対し、CAFCは非自明性を肯定している。CAFCは、肯定の論拠として、'565号特許における解決課題が引用文献に見出されないことを挙げている。その解決課題とは、2.3の項で先に挙げたその3の考え方、ペダルアームが所定のピボット回りに回転する形態により、二種類の技術を組み合わせた際の技術的な問題を避けるという考え方(別に言うと、よりシンプル、より小さな、より安価な電気的あるいは電子的な制御装置の提供)である。
 しかし、'565号特許発明のクレームには、その3の考え方に直接関係する技術的事項を見出すことができない、と考える。CAFCは、'565号特許のそのような解決課題に関連し、Rixson特許におけるワイヤ破損の問題に言及している。この言及は、'565号特許のクレームに明確な限定があってこそ意味をなすものである。
 「ワイヤ破損の問題」は、Rixson特許(発明)が、ガイドロッド10に沿って前後動可能なキャリアアセンブリ12 に対して、ペダル16が回転可能に支持されているからこそ生じる。そのような問題を避けるとすれば、'565号特許発明は、ペダル14がガイドロッド62に沿って前後動可能であり、そのペダル14を含むペダルアセンブリ22がサポート18に対して回転可能に支持されている、という限定をもって理解されるべきである。そのような限定がクレームに記載がない以上、CAFCの論拠は破綻している、と考えざるをえない。

(2) 考察2
 一方、最高裁における「TSMテストは柔軟に適用されるべき」という見方にも疑問が残る。先の4.2の項ですでに述べたとおり、第2の特許文献であるRixson特許は、“an electronic signal rather than a mechanical linkage” という考え方を明示している。当業者にとって、Rixson特許のその考え方は、“a mechanical linkage”を示すAsano特許に対し、“an electronic signal” を橋渡すTSMのいずれかに該当するのではないだろうか。それにより、クレーム4の発明は、Asano特許とRixson特許との二つの特許文献に基づいて、非自明性が否定される、とするのが妥当である。すなわち、アンダーラインで示す差異「サポート(18)に支持された電気的な制御装置(28)」は、「クレーム4の発明が全体として当業者に自明であるほどのもの」であると判断されるのが妥当である。
 なお、最高裁における判断も、CAFCの場合と同様、'565号特許発明を技術的に誤認したままなされている点が気になる。'565号特許発明の特許としての技術的意義は、「ペダル14がガイドロッド62に沿って前後動可能であり、そのペダル14を含むペダルアセンブリ22がサポート18に対して回転可能に支持されている、という限定」をもってこそ生じるからである。

 判決に共通する問題点として、「ペダル14がガイドロッド62に沿って前後動可能であり、そのペダル14を含むペダルアセンブリ22がサポート18に対して回転可能に支持されている、という限定」が、クレームに規定されていないのに、発明の意義の検討では内容であるかのように扱われていることを指摘する。これは確かに、適切な批判であるようにも見える。日本で当然とされる考えからは、そのとおり、クレーム要件になっていないのに発明の意義として扱うのはおかしい。日本での進歩性判断では、先行技術が充足しないクレーム要件を専ら対象とした議論と検討をするから、このような話にはなり得ない。

 しかし、本稿での指摘のとおり、それこそが米国流なのである。非自明性を検討するに当たっては、クレーム要件が重要とはされない。上記引用が批判するように、クレームで規定されていない開示内容をも取り上げて判断するのが米国法の非自明性なのであり、それで論拠破綻というものではない。現にCAFCも最高裁も一般的にそうしているのである。

 なお、KSR事件での各判決の結論は、地裁が特許を無効としたのに対して、CAFCが特許を非無効とし、最高裁がTSRテストを柔軟に考えるべきとしてこれを破棄して差し戻しした。CAFCが非無効(有効)としたについては、開示の成果が評価されており、これが保科論文の直接の批判対象である。最高裁はこれを破棄したが、成果の評価については特に判示が無く、否定する趣旨ではないと解される。保科論文は、これを同じく批判している、次のとおり: 「なお、最高裁における判断も、CAFCの場合と同様、'565号特許発明を技術的に誤認したままなされている点が気になる。」

3.5.2 対象は the claimed invention だが

 それではクレームされた発明を評価することにならない、とも思われよう。米国法でも検討対象は the claimed invention であるはずなのにおかしい、という議論がありそうである。

 しかし、そうではない。対象は the claimed invention だが、その広がりは問題としない。自明かどうかの判断の対象は、むしろ開示内容こそ(それは勿論クレームの範囲内にある)なのである。

 広がりのあるクレームに対して、開示内容は、クレーム範囲に含まれる一つまたは複数の、具体的な個物である。それらに価値があることで、非自明とされ得る、という考えだと解し得る。

 発明の価値ないし非自明性をこのように考えるなら、クレームの広がりを問題とすることはなくなる。

3.5.3 KSR事件とリパーゼ事件との比較

 KSR事件における上記の限定は、リパーゼ事件における「Ra」と同じである。それを満たして初めて開示の成果を得ることが出来るが、だからといって、その限定がクレームに規定されていなくても米国での非自明性のためには障碍とならない。規定されていなくても、かかる成果をもって非自明性を基礎付けることが許される。この点は、日本での進歩性についての一般的な考えと比較すると、かなり大きな違いである。

 KSR事件でCAFCと最高裁は結論を異にしているが(最高裁は破棄差戻だが)、これはTSRテストの考え方の違いによる。要件になっていない点を必要とする成果を非自明性のために考慮可能とする点では、共通である。リパーゼ事件で高裁と最高裁が違うのは、クレーム解釈の違いによるもので、「Ra」であることを必要とする成果を顧慮するのには、それへの限定が必要だとする点では、共通である。このように、限定の必要の有無という点で、日米の裁判例は分かれていると理解できる。

(以上、WEBでの加筆)

3.6 米国審査基準(MPEP)でも差異を確認はするが、全体を判断対象とする

 米国審査基準(MPEP)を見ても、こうした意味を確認することが出来る(前稿でも説明したとおり)

 MPEP によると、自明性は、(A)先行技術を認定し、(B)クレーム発明との差異(differences)を確定し、(C)当業者のレベルを決する、という3点の事実認定に基づいて判断するとされる。ここでは差異を確定するとされるから、日本での進歩性判断と同様にも見える。

 しかし、その先が違う。2141.02 Differences Between Prior Art and Claimed Invention [R-10.2019] に、次のとおり記されている:

In determining the differences between the prior art and the claims, the question under 35 U.S.C. 103 is not whether the differences themselves would have been obvious, but whether the claimed invention as a whole would have been obvious.

 わざわざ、differences themselves が自明かどうかではなくて、the claimed invention as a whole が自明かどうかを判断する、と言うのである(追記: この説明は、日本での進歩性の検討の仕方との明確な相違を明白にしています。日本では、先行技術が満たさない要件を検討対象としており、それは正にここで言う differences themselves です)。判断対象について、the claimed invention としており、claimed と言うからには、クレーム要件が関係し得るにしても、the differences ではなくて the invention as a whole を考えるのだという。

 これは、この判決のいうように、非自明性判断において重要なのは、範囲の広さないし限界と先行例との差異ではなくて、開示内容を含めての発明であるとの趣旨だと理解できる。

3.7 我が国との比較、明白な違い

 比較すると、少なくともこの判示においては、我が国との明白な違いが見られる。新規性が認められる限り、クレームの広さを限定する議論を明らかに否定する。

 ただし我が国でも、物質特許を認める際の一般的な議論では、全面的な効用を必要とするわけではない(追記: こう書いてしまっていたのですが、どういう指摘を意味しようとしていたのか、今読み返すと疑問です。すいません。。むしろ、化学物質の場合なら、クレームされた物質の化学的性質は自ずと一意ですから、その物質としての効用は全範囲にわたってもたらされるはずです。それでも、“どう使っても役に立つ”というわけではないので、そのへんのことを言おうとしての記述なのだろうと思われます、たぶん。)。それと比べると特別なことではないようにも見えるかも知れない。が、ここでは、物質自体については基本的には特許性が無い(prima facie obvious)のを前提としての話であることに注意する必要がある。それなのに、或る特性を根拠として、物質自体の特許が認められることがあるのである。これは、特許性が基本的にはないと言ってもそれは非新規ではなくて自明としてのことであるからこそあり得る。この点で、非新規と自明とには大きな違いがあることになる。この、自明というのを非新規とはずいぶんと違うように扱うという点にこそ、注目するべきと理解される。

 米国では、新規性がある限り、最大限に広いクレームを許容しようとする。少なくとも非自明性の要求がこの点を制限することはない。

3.7.1 日本での実務に対する違和感(WEB掲載時に追記)

 ここでの指摘のような、日本での進歩性に関する議論(実務における議論)について、筆者はそもそも30年以上前に強い違和感を持っていた。当時はこれを言葉で十分に説明することが出来なかったが、今考えてみると、本稿で説明している内容がその違和感の中身である。

 特許法について筆者は学生時代から強く興味を持っていったものの、弁護士としての実務に或る程度以上に関与したのは、米国シリコンバレーで勤務したのが最初である。その後に日本に帰国して初めて日本での実務に本格的に接した。この際に、先行技術が充足しない要件を取り出して、もっぱらそこを進歩性の議論の対象とする議論(相違点として取り上げる議論)に対して、強く違和感を持った。米国での議論とは違っていた。

 しかし、クレームされた発明の進歩性を検討するのだと思うと、これで良いはずとも思われてくる。米国での議論と実際に違いがあるとは思ったが、それ以上に明文化した説明が出来なかった。

3.8 米国での他の要求による限度

 そうは言っても米国でも限度はある。非自明性の要求以外での限度である。

 まず、特許適格性(米国特許法101条の違反)がある。前稿で検討したように、広すぎるクレームに対しては、主題特許適格性違反とされることがある。近時の American Axle & Manufacturing (AAM) v. Neapco Holdings(CAFC, 31 July 2020)を取り上げた(この件は前稿執筆時にはcertiorari (裁量上告) が申し立てられていたが、その後、連邦最高裁は2022年6月30日付けで却下した)

 [田村](※6)が、自然法則利用の特許性の要件を実質的に進歩性要求の方に取り込むという対処の可能性に言及している。本稿の検討とは逆の方向であるが、むしろこの[田村]の方向の方が、我が国での実務的な感覚に沿うもののようにも思われる。

 また場合によっては、開示内容に応じた広さでないとされることもある。[前田2](※7)が、裁判例をあげてこうした説明をしている(主にはクレーム全体にわたって実施可能が要求されるとして)

 こうした限度はあるとは言え、その広さはやはり、我が国におけるよりは段違いに広いと思われる。[前田2]は、この辺りについて我が国と同様に限度があるかのように説明しているが、程度については疑問である(実施可能性がクレーム全体にわたって要求されるとの説明も、文字通りにはそうは受け取りがたい)。限度はあるにしても、相当に緩い話であると思われる。たとえば[前田2]130頁があげるモールスの例では(O'Reilly v. Morse 56 U.S. 62 (1854)、特許はUSP 1,647)、電磁力を使った通信のすべてをクレームしている。我が国でなら、試みようともされないレベルではなかろうか(1840年6月20日付けの特許であり、先行技術が極めて乏しい時代の話であるとは言え)

4. 我が国での進歩性要求はどうあるべきか

 我が国での進歩性要求について、以下のように思われる。

4.1 違いは基本的かも知れない

 本稿を検討し始めた際の発想は、我が国での進歩性判断において、成果などの考慮を十分にするべきで、ついては要件や範囲を偏重するべきではない、との考えだった。その文脈で米国の話が参考になると思われた。

 しかし再考するに、日米のこの点での違いは、実はかなり基本的なものであるように思い直している。そうすると、参考に出来るかは疑問で、むしろ米国において注意するべきこと、という面が強いかも知れない。

 それでも、更に再考すると、本来は違ってくる理由は無いように思われる。相違点を取り上げるのはともかくとして、そこを達することが容易かどうかばかりを考察するのは、発明価値の評価としては不適切なところがある。これは日本でも考えて然るべき点である。

 同様の方向の示唆は、多少はあるようにも見える。たとえば[西島](※8)が、「特許請求の範囲の記載のみに基づいて進歩性判断がなされることには違和感を持つ。」(537頁)と言うのは、本稿のような議論を示唆していると解される。しかしそれ以上に積極的な議論は見当たらない。

4.2 商業的な成功を評価するべきで、そのためには

 どれだけ広いクレームを得られるようにするべきかは、一種の政策的な判断である。進歩性を理由として狭いクレームを求めるのは、理論的な疑問はあるものの、その結論自体はあり得る。

 それでも、商業的な成功などの二次的考慮事項を適切に取り上げるべきなのは、否定しがたい事だと思われる。 [中山](※9)の言うとおり、商業的成功を評価して進歩性を認めることは殆ど無いのが現実だと思われるが、これは適切な状況とは思われない。後知恵を排した適切な評価のためには、二次的考慮事項は欠かせない。そのためには、相違点検討の偏重は考え直す必要がある。相違点を専ら取り上げることが、クレームの全域での進歩性の要求につながり、それが、商業的成功を十分に評価することの障害になっているように見える。

 [塚原](※10)が、最も近い先行技術を探し出すこと自体が後知恵の結果となることを指摘して、極めて説得的である。この問題に対処するには、商業的成功などの成果の評価を実効化することが是非とも必要だと思われる(それだけで足りるものではないにしても)

 現に商業的成功を収めていても、それは、範囲の中の或る特定の実施形態でのことなのが普通である。そうすると、規定されている要件だけで成功の原因となっているのではなく、その特定の形態の属性に原因がある、との可能性を否定できない。それでは進歩性を基礎付けない、と考えるのが現状であると見える。これでは、商業的成功が進歩性の根拠となるのは、化学物質関連などに限られることになる。

 これは適切ではない。範囲の中でありさえすれば、或る実施形態での成功は、そのクレーム自体の進歩性の根拠として十分だ、と考えるべきではないか。それで初めて、成功を適切に評価できるようになる。

 たとえこの点が対処されても(この点の対処は必要でありなされるべきだとは思われる)、審査基準のように「それ以外の原因に基づくものではないとの心証を得た場合に限って」と限定的に言われると(※11)、かなり難しい状況は残る。いろいろな理由が重なって初めて成功するのは当然のことであり、そうした認定で十分なのではないだろうか。

4.3 相違点にばかり注目して判断するべきではない

 そもそも、相違点にばかり注目することには、注意が必要である。僅かな相違だと見えても、それで容易だと考えるのは後知恵に過ぎない場合もあるのではないか。単なる寄せ集めで進歩性無しとされるべき場合があるのは良いが、小さな(小さいと思われる)相違であっても、それで成果が出ている場合には、特許性を認めるべきである。相違点だけを見ていたのでは、そのように結論できない場合がある。

5. 侵害訴訟での無効の抗弁の扱いとの関係(WEB掲載時に追記)

 本稿は、進歩性判断においてクレーム要件を必須とする考え(日本では極めて一般的である)を疑問とするわけだが、これが、米国と違って日本では、無効の抗弁に対して未訂正での再抗弁を認めることの理由になっているのかも知れない。

 米国では、無効と判断されるクレームは、現に無効なのであるから、“訂正したら解消するから今現在も権利を認める”などということはあり得ない、それは登録されていない発明と同様である(と考えているように見える)。これに対して日本では、そのままで無効というわけではないとも見える法律である。いわゆる無効の抗弁を規定する104条の3は、「権利行使の制限」とされていて、「特許無効審判により...無効にされるべきものと認められるときは」「権利を行使することができない。」としている。無効にされるのは無効審判等によるのであって、それが未だであれば、今現在は無効というわけではなく、行使できないというのに留まる規定になっている。

 104条の3の元となったキルビー最判も、権利濫用として権利行使を認めないとしたものである。これは、特許権をそのままに否定しているわけではないとも理解できた。

 単なる無効ではないとされるからこそ、未だ訂正していなくても、訂正が可能なら再抗弁で権利行使を認めるという考えもあり得るのだと思われる。

 そして、それを認めることが合理的に見えるのは(そういうことがあり得るのは)、進歩性の判断においても、クレーム要件を決定的に重要視するからではないだろうか。

 逆に米国では、新規性ではクレーム要件は決定的だが、非自明性判断はむしろ開示内容全体であるから(それで、the disclosure が obvious だ、という言い方をする。この、開示内容を問題とするい言い方には意味があるのだと思われる)、それで無効かどうかが問題となる場合には(新規性は大丈夫であるのが前提となっている)、クレーム要件やその訂正には意味が乏しい。それゆえに再抗弁を考える機会が無いのではないか。もちろん、新規性を維持するための訂正はあるが、非自明性のためには原則として訂正(訂正による要件追加)は意味を持たない(もっとも、この話には限度はあるのが微妙なところである: 開示とクレームの一致は必要だから)

 非自明性は程度問題であるから先に訂正しておけと言うのには無理がある場合があろうが、そういう問題が無いから、必要なら事前の訂正を求めることで済んでいる、ということと思われる。

[注]

(1)[前稿]: 松本直樹「進歩性の判断で重要なのは開示内容であり,クレーム要件は副次的であるべき」パテント Vol.75 (2022) No.1 P.41. (左のリンク先はキャッシュのPDF)

(2)[飯村]: 飯村敏明「特許出願に係る発明の要旨認定とクレーム解釈について」片山英二先生還暦記念論文集 知的財産法の新しい流れ、35頁-、2010年 青林書院.

(3)[塩月]: 塩月秀平「発明の要旨認定と技術的範囲確定 -リパーゼ判決を振り返る-」パテント Vol.66 (2013) No.10 P.99.

(4)[拙稿]: 松本直樹「フィリップス事件と日本から見た米国侵害訴訟の注意点(ハネウェルvミノルタおよびコイルvセガを加えて考察)」知財管理56巻(2006年)9月号、筆者のウェブページにも掲載.

(5)[前田1]: 前田健「進歩性判断における「効果」の意義」L&T No.82 P.33 (2019).

(6)[田村]: 田村善之「特許適格性要件 その2 特許適格性要件の機能と意義に関する一考察 (2・完)」知的財産法政策学研究65号 (2022) P.107.

(7)[前田2]: 前田健『特許法における明細書による開示の役割-特許権の権利保護範囲決定の仕組みについての考察』2012年 商事法務.

(8)[西島]: 西島孝喜『発明の進歩性〜判断の実務〜』2008年 東洋法規.

(9)[中山]: 中山信弘 『特許法』(第4版)法律学講座双書 2019年 弘文堂.

(10)[塚原]: 塚原朋一「特許の進歩性判断の構造について」片山英二先生還暦記念論文集 知的財産法の新しい流れ、417頁-、2010年 青林書院.

(11)審査基準 第 III 部 第 2 章 第 2 節 進歩性: 「(6) 審査官は、商業的成功、 長い間その実現が望まれていたこと等の事情を、 進歩性が肯定される方向に働く事情があることを推認するのに役立つ二次的な指標として参酌することができる。ただし、審査官は、出願人の主張、立証により、この事情が請求項に係る発明の技術的特徴に基づくものであり、販売技術、 宣伝等、それ以外の原因に基づくものではないとの心証を得た場合に限って、この参酌をすることができる。」


https://matlaw.info/ShinpoShimizuKoki.htm

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